郡山市立三穂田中学校 → 清陵情報高(野球部)→ 日本大学工学部 → 東芝ブレイブルーパス
日本大学工学部でラグビーを始めた変わり種。体格からは想像もつかない圧倒的なフィットネスとスピードが魅力。2005年にはセブンス代表に選出されるなど、ランニングスキルにも優れた闘志溢れるプレーヤーである。ラグビーワールドカップには2007年度、2011年度、2015年度に選出された。また2015年12月にはスーパーラグビーの日本チームサンウルブズの2016年スコッドに加入した。
志を立てるのに遅すぎることはない―
まさにこの言葉を実現したラグビー選手がいます。高校までは野球、大学からラグビーを始めて日本代表キャップ歴代1位(2017年4月現在)を誇る大野均選手。ラグビーには自分の居場所がみつけられるという大野選手の、偶然を必然に変える努力と闘志あふれるサクセスストーリーをお聞きしました。
<大好きな野球ではずっと補欠だった>
小学4年生の時、地元にスポーツ少年団ができたのをきっかけに、本格的に野球を始めました。父親が野球をしていたので、自然と野球に興を持っていたのです。できたばかりの少年野球チームは、まだ人数が少なく、レフトを中心にいろいろなポジションをしていました。現在の私の身体を見ると、小学生の時から人一倍体格がよかったのではないかと思われるのですが、ずば抜けて大きいわけではありませんでした。周りに比べて大きいほう、というレベルでした。この頃の夢はプロ野球選手。でも、それはあくまでも夢で、実現することはないだろうと思っていました。
中学では軟式、高校では硬式を続け、ポジションは主に外野、3年時はキャッチャーも経験しました。といっても、3番手の補欠です。それでも野球が大好きだったので、練習だけは誰にも負けないほど懸命でした。身長は、中学時代に20cm、高校時代に10cm伸び、小6の時点で160cmだったのが現在と同じ190cm程になっていました。試合に出られずベンチに座っていると、相手チームから「あの大きいのはいつ出てくるんだ」と思われていたようです(笑)。
<受け身だったラグビーとの出会い>
大学に進学にしても迷わず野球を続けるつもりで、自主トレを欠かさず行っていました。しかし、入学後、野球部へ顔を出してみようと思っていた矢先、まるでドラマのような、あるいは漫画のような出来事が起こったのです。キャンパスを1人で歩いていた私。そこに体格のいい先輩2人が近づいてきて、両脇からガッと私の腕をつかむと、そのままラグビー部の部室へ連行。そして、名前と連絡先を書くように言われ、「体格がいいから是非ラグビーをやらないか」「一度練習を見に来ないか」と猛烈にくどかれました。「野球をやりたいので」と断ったのですが、それでも熱心に誘ってくれる先輩たち。しだいに「一回くらい顔を出さないと申し訳ないな」という気持ちになっていました。そんな思いで練習に参加したのが、ラグビーとの初めての出会いだったのです。
<知れば知るほど魅了されるラグビー>
まさか自分がラグビーをするとは思ってもおらず、ラグビー用語もほとんど知りませんでした。入部した日大工学部ラグビー部は、部員数が20人にも満たず、4年生が抜けたら試合に出られないようなチーム。所属は、東北地区大学ラグビーリーグで、関東と違ってあまり目立たないりーグです。しかし、大学から思いがけずラグビーを始めた私にとっては、そのような環境が、かえって居心地のよいものでした。チームメイトは皆高校からの経験者で、自分だけが未経験者。それでも部員数が少ないので試合に出ることができました。補欠で試合にあまり出られなかった野球とは違う、そしてタックルでぶつかり合うことの非日常性、いつの間にかラグビーの魅力にとりつかれ、楽しくてしかたがなくなっていたのです。
<ラグビー選手として階段を駆け上がった時>
大学4年生の春、ラグビー福島選抜に呼ばれました。その時のフォワードコーチが、東芝ラグビー部で指導をしていて、後に監督になった薫田さんと同期ということで、「おもしろいヤツがいる」と私のことを話してくれたのです。それがきっかけで、東芝の練習に参加させてもらうことに。日本代表選手や外国人選手が、我こそはと肩を並べる名門・東芝ラグビー部。そのチームの練習に、素人同然の自分が参加したところ、普段とは当たりもスピードも違うと感じました。なんとか食らいついていくも、練習中に肩を脱臼してしまったのです。しかし「せっかく参加させてもらったのに、ここでやめたくない」と思い、痛みを我慢して最後まで参加し続けました。すると、その根性を認めてくれ、東芝ラグビー部へ入部が決まったのです。スタートが遅れ下手ながらもチームに貢献したいと、がむしゃらに打ち込んだ大学4年間でした。
<がむしゃらに向き合うことで継続できた夢>
こうして東芝ラグビー部に入部したのですが、正直、不安しかありませんでした。実は、大学卒業後には地元で消防士になろうと勉強をしていたのです。でも「東芝ラグビー部に入りたくても入れない選手もたくさんいる。ここで入らなかったら後悔する」と思い、挑戦することを決めました。「東芝ラグビーにいた」という爪痕を残したいと思いで、がむしゃらにラグビーをする毎日でした。
すると、2年目からは試合に出してもらえるようになり、4年目には日本代表に。社会人で通用するとも思っていなかったのに、まさか自分が日本代表に入るなんて、夢のような出来事!そして、12年もの間、代表に呼ばれるとは思ってもみませんでした。関西では中学からラグビーを始める選手も少なくありません。そんな中、大学からラグビーを始めて日本代表になった珍しい経歴の持ち主は、今のところ私を含めて2人だけです。
<スポーツを頑張る子どもたちへ>
小学校から高校まで続けた野球では芽が出ませんでしたが、最初は受け身だったラグビーでは活躍できる場がありました。ラグビーは、背が高い低い、ぽっちゃりしているなどさまざまな体格と運動能力が必要とされる多様性のスポーツです。また、15人で80分間の試合をすると、一度もボールに触らずに終わる試合もありますが、それでも動きによって評価してもらえるのがラグビーの魅力でもあるのです。言葉を交わさなくても、身体が触れ合いぶつかり合う、そこから感じるものがあります。タックルの痛みが分かり合えるのもよいでしょう。また、激しさを表現できるところに惹かれるということもあります。ラグビーを一度経験したら、自分の居場所がみつかるはず。是非、ラグビーボールを触ってほしいと思います。
<2019年のラグビーワールドカップに向けて>
ワールドカップ開催時の2019年には41歳になります。グラウンドに立っているかどうかわかりませんが、どのような形でもいいので協力したいと思っています。日本開催のこのラグビーワールドカップの成功が2020年オリンピック、パラリンピックにもつながるでしょう。スポーツで日本を元気にしたいですね!
【取材・文】金木有香
【運営】株式会社ラグスター
日本大学工学部でラグビーを始めた変わり種。体格からは想像もつかない圧倒的なフィットネスとスピードが魅力。2005年にはセブンス代表に選出されるなど、ランニングスキルにも優れた闘志溢れるプレーヤーである。ラグビーワールドカップには2007年度、2011年度、2015年度に選出された。また2015年12月にはスーパーラグビーの日本チームサンウルブズの2016年スコッドに加入した。
志を立てるのに遅すぎることはない―
まさにこの言葉を実現したラグビー選手がいます。高校までは野球、大学からラグビーを始めて日本代表キャップ歴代1位(2017年4月現在)を誇る大野均選手。ラグビーには自分の居場所がみつけられるという大野選手の、偶然を必然に変える努力と闘志あふれるサクセスストーリーをお聞きしました。
<大好きな野球ではずっと補欠だった>
小学4年生の時、地元にスポーツ少年団ができたのをきっかけに、本格的に野球を始めました。父親が野球をしていたので、自然と野球に興を持っていたのです。できたばかりの少年野球チームは、まだ人数が少なく、レフトを中心にいろいろなポジションをしていました。現在の私の身体を見ると、小学生の時から人一倍体格がよかったのではないかと思われるのですが、ずば抜けて大きいわけではありませんでした。周りに比べて大きいほう、というレベルでした。この頃の夢はプロ野球選手。でも、それはあくまでも夢で、実現することはないだろうと思っていました。
中学では軟式、高校では硬式を続け、ポジションは主に外野、3年時はキャッチャーも経験しました。といっても、3番手の補欠です。それでも野球が大好きだったので、練習だけは誰にも負けないほど懸命でした。身長は、中学時代に20cm、高校時代に10cm伸び、小6の時点で160cmだったのが現在と同じ190cm程になっていました。試合に出られずベンチに座っていると、相手チームから「あの大きいのはいつ出てくるんだ」と思われていたようです(笑)。
<受け身だったラグビーとの出会い>
大学に進学にしても迷わず野球を続けるつもりで、自主トレを欠かさず行っていました。しかし、入学後、野球部へ顔を出してみようと思っていた矢先、まるでドラマのような、あるいは漫画のような出来事が起こったのです。キャンパスを1人で歩いていた私。そこに体格のいい先輩2人が近づいてきて、両脇からガッと私の腕をつかむと、そのままラグビー部の部室へ連行。そして、名前と連絡先を書くように言われ、「体格がいいから是非ラグビーをやらないか」「一度練習を見に来ないか」と猛烈にくどかれました。「野球をやりたいので」と断ったのですが、それでも熱心に誘ってくれる先輩たち。しだいに「一回くらい顔を出さないと申し訳ないな」という気持ちになっていました。そんな思いで練習に参加したのが、ラグビーとの初めての出会いだったのです。
<知れば知るほど魅了されるラグビー>
まさか自分がラグビーをするとは思ってもおらず、ラグビー用語もほとんど知りませんでした。入部した日大工学部ラグビー部は、部員数が20人にも満たず、4年生が抜けたら試合に出られないようなチーム。所属は、東北地区大学ラグビーリーグで、関東と違ってあまり目立たないりーグです。しかし、大学から思いがけずラグビーを始めた私にとっては、そのような環境が、かえって居心地のよいものでした。チームメイトは皆高校からの経験者で、自分だけが未経験者。それでも部員数が少ないので試合に出ることができました。補欠で試合にあまり出られなかった野球とは違う、そしてタックルでぶつかり合うことの非日常性、いつの間にかラグビーの魅力にとりつかれ、楽しくてしかたがなくなっていたのです。
<ラグビー選手として階段を駆け上がった時>
大学4年生の春、ラグビー福島選抜に呼ばれました。その時のフォワードコーチが、東芝ラグビー部で指導をしていて、後に監督になった薫田さんと同期ということで、「おもしろいヤツがいる」と私のことを話してくれたのです。それがきっかけで、東芝の練習に参加させてもらうことに。日本代表選手や外国人選手が、我こそはと肩を並べる名門・東芝ラグビー部。そのチームの練習に、素人同然の自分が参加したところ、普段とは当たりもスピードも違うと感じました。なんとか食らいついていくも、練習中に肩を脱臼してしまったのです。しかし「せっかく参加させてもらったのに、ここでやめたくない」と思い、痛みを我慢して最後まで参加し続けました。すると、その根性を認めてくれ、東芝ラグビー部へ入部が決まったのです。スタートが遅れ下手ながらもチームに貢献したいと、がむしゃらに打ち込んだ大学4年間でした。
<がむしゃらに向き合うことで継続できた夢>
こうして東芝ラグビー部に入部したのですが、正直、不安しかありませんでした。実は、大学卒業後には地元で消防士になろうと勉強をしていたのです。でも「東芝ラグビー部に入りたくても入れない選手もたくさんいる。ここで入らなかったら後悔する」と思い、挑戦することを決めました。「東芝ラグビーにいた」という爪痕を残したいと思いで、がむしゃらにラグビーをする毎日でした。
すると、2年目からは試合に出してもらえるようになり、4年目には日本代表に。社会人で通用するとも思っていなかったのに、まさか自分が日本代表に入るなんて、夢のような出来事!そして、12年もの間、代表に呼ばれるとは思ってもみませんでした。関西では中学からラグビーを始める選手も少なくありません。そんな中、大学からラグビーを始めて日本代表になった珍しい経歴の持ち主は、今のところ私を含めて2人だけです。
<スポーツを頑張る子どもたちへ>
小学校から高校まで続けた野球では芽が出ませんでしたが、最初は受け身だったラグビーでは活躍できる場がありました。ラグビーは、背が高い低い、ぽっちゃりしているなどさまざまな体格と運動能力が必要とされる多様性のスポーツです。また、15人で80分間の試合をすると、一度もボールに触らずに終わる試合もありますが、それでも動きによって評価してもらえるのがラグビーの魅力でもあるのです。言葉を交わさなくても、身体が触れ合いぶつかり合う、そこから感じるものがあります。タックルの痛みが分かり合えるのもよいでしょう。また、激しさを表現できるところに惹かれるということもあります。ラグビーを一度経験したら、自分の居場所がみつかるはず。是非、ラグビーボールを触ってほしいと思います。
<2019年のラグビーワールドカップに向けて>
ワールドカップ開催時の2019年には41歳になります。グラウンドに立っているかどうかわかりませんが、どのような形でもいいので協力したいと思っています。日本開催のこのラグビーワールドカップの成功が2020年オリンピック、パラリンピックにもつながるでしょう。スポーツで日本を元気にしたいですね!
【取材・文】金木有香
【運営】株式会社ラグスター
ラグスター公式サイト
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