啓光学園高(現:常翔啓光学園高) → 同志社大 → タウランガスポーツ(NZ) → クボタスピアーズ → Work Life Brand 代表
大阪・啓光学園中(現:常翔啓光学園中)でラグビーを始め、啓光学園高では3年時に高校日本代表。しかし、ケガ(アキレス腱断裂)のためフランス遠征は辞退した。そして、同志社大でも同部位の痛みに悩まされた。その後、就職したカネカが1年目に廃部となり、クボタに移籍。抱えるケガにより、4年で現役を引退。
現在は、人財育成コンサルタント事業・プロコーチング事業「Work Life Brand」を設立し、日本協会のリソースコーチやU17・U18日本代表を指導する中、プロコーチングとして12チームと契約。御所実業(奈良)や興国(大阪)、女子ラグビー(四国大学)など。
寝ても覚めても野球、野球だった少年が、ある日、心を奪われたスポーツがあります。
―それは、ラグビー。ラグビーの虜になった日から、常に次のステージを想定して走り続けている二ノ丸友幸さん。そのラグビー人生とラグビーの魅力について、貴重なお話を伺いました。
<寝ても冷めても野球一色の小学生時代>
小学1年生の時に野球にひと目惚れした私。幼い頃の写真を見ると、旅行、お出かけ、いっちょうらの服を着ておしゃれをしている時など、どのシーンでも阪神タイガースの帽子をかぶっていました。それくらい野球が好きでしかたなかったのです。テレビは漫画より何より野球中継。父と甲子園に通い、誕生日、クリスマスのプレゼントはすべて野球グッズ。祖父が野球をしていたので、その影響ですね。
<まさかの野球超え!ラグビーと出会った日>
小学3年生から6年生に混じって試合に出ており、野球選手としては順調。悩みはありませんでした。しかし、5年生になるとそんな野球生活に疑問を持ち始めるようになったのです。「なぜ全て監督の指示に従わなければいけないのか」「守備の時にボールが飛んでこなかったら退屈」「攻撃のときも自分の打順がまわってこなければベンチにすわっているだけで退屈」など、自分で考え、判断し、行動できないことにストレスを感じていました。
野球に対するそんな思いを抱いていた6年生の時、親戚の人に連れられ、初めてラグビーの試合を観に実家近所の花園ラグビー場へ行くことに。忘れもしないその年の全国高校ラグビー大会決勝戦、啓光学園高校(現:常翔啓光学園高校)と国学院久我山高校の対戦でした。優勝したのは啓光学園。その試合を観た私は、まるで体に電気が走ったような衝撃を受け「これだ!」と、強く心に響くものを感じたのです。
早速家に帰って学校年鑑で啓光学園について調べたのを覚えています。この時点でラグビーを始めることは決心しており、やるなら強豪校でチャレンジしたいと思ったのです。周りの人は、将来も野球を続けていくものだと思っていたでしょう。しかし、私の気持ちは「野球もいいけど、ラグビーもいい」というような曖昧なものではありませんでした。私の中で野球が0になり、ラグビーが100になった瞬間だったのです。
<ラグビー選手としての土台を作った啓光学園中学・高校時代>
思いどおりに啓光学園中学のラグビー部に入部した私は、高校という次のフィールドで目標を達成するべく、日々練習に励んでいました。私は目標があってこそ頑張れる、モチベーションが上がるという性格。高校1年時でのレギュラー獲得、高校日本代表を目指すことで、モチベーションを保ちながらラグビーに取り組むことができました。
啓光学園ラグビー部は当時、日本一を目指す全国屈指の強豪チーム。部員は各学年およそ40名、合計120名以上の大所帯で、高校からラグビーを始めるのは学年に1人いるかいないかといった環境でした。まさに「我こそは」という選手ばかり。相当レベルが高く、スクラムハーフだけで同級生で5人、チーム全体で10人以上おり、激しいポジション争いが繰り広げられました。
こういった環境であることから日々の練習にも緊張感はありましたが、理不尽な上下関係はありませんでした。チームの雰囲気は、完全実力主義。1年生でも意見を述べることができ、先輩もその意見を取り入れてくれました。また、監督である記虎先生は当時、ラグビー界のカリスマ的な存在。よい指導者に巡り会えたと感謝しています。記虎監督にアドバイスをきちんと体現すれば、優勝できる、個人としても日本代表になれると確信していました。記虎先生の下で過ごした高校3年間で、私のラグビー選手としての土台を築けたように、今振り返っても思います。
<人生を変えた1点とケガ>
私が高校2年生の時、3年生によい選手がそろっており、日本一が狙えると思っていました。全国大会では、厳しい戦いではありましたが、全く負ける気はせず、決勝戦まで駒を進めました。そして、迎えた決勝戦、戦う相手は愛知県代表西陵商業。試合開始直後、今までに経験したことのない強い相手だと感じたことを覚えています。結果は、ロスタイムに逆転トライ、ゴールを決められ、惜しくも1点差で優勝を逃すことに。しかし、全力を尽くしたという思いと、1点の重みと大切さが、心に刻みこまれた戦いでした。ここで経験した、1点により人生が変わること、1点の重みと大切さは、指導者になってからも伝え続けています。高校ラグビーの決勝戦で学んだ、人生に大きくかかわる1点。それは確実に人生にとってプラスとなったのです。
また、高校時代に起こったもう1つの大きな出来事があります。高校2年生の時、高校日本代表候補に選ばれ、中学時代に掲げた夢が叶うところまで来ました。そして3年生になり、高校日本代表としてフランス遠征のメンバーに選ばれたのです。しかし、全国大会中に持病のアキレス腱炎が悪化し、フランス遠征直前合宿の練習ができなくなるという事態に。悩んだ末、フランス遠征は断念し、高校日本代表を辞退。叶いかけた夢が途中で途切れた気持ちでした。
実は、私の人生を変えたこのアキレス腱の怪我には、おもしろいエピソードが隠れているのです。高校日本代表の合宿で出会った、慶應義塾高校ラグビー部キャプテンの“ゴリ“こと野澤武史(現在、Jスポーツ解説者)。いきなり初対面の私に近づいてきて「お前が二ノ丸か。2年生から高校日本代表候補になって注目されているかもしれないけど、俺には通用しないぞ」と言うではありませんか(笑)。そんなふうに私を意識していた彼のタックル(本当は不要なレイトタックルですが)を合宿中に受け、私のアキレス腱が痛み出したのです。その後、引退まで悩まされ、引退の原因にもなったアキレス腱痛の発端です。
ここから彼との関係が始まるのですが、出会いからして本当におもしろいものでした。もちろん、今でも良き戦友、親友です(笑)。
<惜しみないサポートと愛情をくれた両親>
私がラグビーをするにあたって、両親は全面的にサポートしてくれました。母は、毎朝5時に起きて欠かさずお弁当を2つ作ってくれました。早弁用とお昼ご飯用です(笑)。練習を終え、自宅に着くのが23時頃になる時も多々あるような毎日。持ち帰った汚い洗濯ものを、いつもきれいに洗ってくれました。そして、両親供に私の話をよく聞いてくれたことが、本当に嬉しかったです。ラグビーのことはあまり知らない両親でしたが、どんな話にも真剣に耳を傾けてくれました。子どもが話し掛けても、ついつい「忙しい」「そんな考えは甘い」とシャットダウンしてしまう親御さんもいるかと思いますが、私の両親は、当時の私の意見や気持ちをきちんと受け止めてくれました。そのおかげで反抗期はなく、過ぎていきました。いや、ラグビーが忙しくて反抗したり親とケンカしたりしている暇がなかったのかもしれませんね(笑)。
先ほどお話したようにアキレス腱炎のためフランス遠征に行けず、手術をした時も、両親はいつもどおり接して愛情を注いでくれました。怪我をしたからといって特別なことをしてくれるのではなく、いつも通りのサポートを。それがかえって有り難かったです。「文句をいうなら辞めなさい。続けるならサポートはしてあげる」といつも言ってくれたことを覚えています。そんな両親のことを今も尊敬していますし、自分の子どもにも私が両親から受けてきたのと同じだけの愛情を注いであげたいと思っています。
<激動の中、ラグビーと仕事の両立を実現した社会人時代>
大学卒業後、2002年に関西社会人Aリーグに所属する株式会社カネカに入社しました。選んだのは、大学時代に尊敬していた2年上の先輩がいるというのが大きな理由でした。入社の翌年2003年より、ジャパンラグビートップリーグが開幕。関西社会人リーグからは上位5チームが参入できることになっていました。しかし、カネカは5位までに入れず、結果、会社が下した決断は廃部でした。ここで人生の岐路に立った私は、当時あまり聞きなれない“移籍“という選択肢を迫られていました。そんな時、トップリーグに参入した数チームからオファーをいただいたのです。その中で自分の将来ビジョンにマッチングしたのが株式会社クボタ(クボタスピアーズ)でした。ラグビー界で「移籍」という言葉が使われ始めたのがこの頃からですね。
社会人になるにあたりラグビーだけでなく、仕事でも1人前になりたいと考えていました。目標にしていたラグビーと仕事の両立が実現できたことで、ラグビーを辞めても自分には仕事があると思えるようになり、けじめをつけて現役引退をすることができました。
<海外のラグビーを経験して>
2002年カネカに入社する前、またカネカからクボタへ移籍する前に、ニュージーランドへ短期ラグビー留学をしました。高校時代からニュージーランド代表である「オールブラックス」が好きで、尊敬する選手もオールブラックスの選手を書くような小生意気な高校生だったのです(笑)。当時は海外のラグビーをテレビでもあまり観ることができなかったのですが、記虎監督が観る機会を与えてくれました。あとは、ラグビー以外にも海外の文化を体験してみたいという思いから、留学を決めました。
ラグビーに関して日本とニュージーランドの大きな違いは、取り組む姿勢です。日本人は好きで始めたラグビーなのに「練習嫌だな」「OFFにならないかな?」というような感情を持つことがありますし、トレーニングに関しても受け身になってしまいます。しかし、ニュージーランドの選手は、練習の無い日にも主体的にトレーニングしていますし、今自分が何をすべきかに気づき、考えて、行動しています。これには普段の練習スタイルの違いもあると思います。ニュージーランドでは、私の知っている限り、全体練習は週に数回、長くても2時間です。練習中はスイッチをオンにし、集中して無駄がありません。テンポよく繰り広げられ、「もっとやりたかった」という思いを持って次のメニューへ進むという、まさに腹八分目の練習なのです。いい意味でお腹いっぱいになることがなく、全体練習後の個人練習の余力を残すことができ、自分でお腹をいっぱいにするという作業をすることができます。
<セミナー講師として>
中学時代から常に次のステージで“何をしたいか、どうなりたいか“を考えて動いてきましたが、クボタ入社後は、現役引退後はどうするかということを常に考えて行動していました。そんな中、自分が様々な研修を受けるようになり、セミナー講師になりたいと考えるようになったのです。そのため入社してから15年間は次のステージでの土台作りと位置づけていました。そして37歳になった年、次のステージにチャレンジしようと決めていたのです。
セミナーの内容は、主に「社会で活躍するためのデュアルキャリアの重要性」ということをテーマに話しています。15年間のサラリーマンライフから見えてきたもの、ラグビーコーチとして学んだことなど、現実的な話を意識しています。「間違い」「正しい」を伝えるのではなく、情報の共有です。「こういう考え方もありますよね」と伝えることで、何かの“気づき“や“自分の見直し“の機会になればいいですね。
<2019年日本開催のラグビーワールドカップに向けて>
2015年ラグビーワールドカップ。日本代表、日本代表選手、ラグビーファミリーのおかげで、ラグビーの知名度が劇的に上がりました。私自身、様々なカテゴリー、チームでコーチをさせていただいている中で、出会った選手がワールドカップで活躍してくれることが楽しみにしています。
ラグビーが全て、ラグビーが何より一番とは言いませんが、人間的に成長できる魅力あるスポーツであることを子どもたちだけではなく保護者の方を含め、ラグビーファミリー以外の皆さんに伝えていきたいと思っています。
<ラグビーをしている子どもたち、ラグビーに興味を持っている子どもたちへ>
ラグビー選手の中には、大柄な体型の選手もいれば、私みたいに背が高くない選手もいます。また、走るのが速い選手もいれば、それほど速くない選手もいます。こうして様々な体格や能力に合うポジションがあるのがラグビーです。そして、前に進みたいのに後ろにボールをパスしなくてはいけないという自己犠牲的な要素があるのが特徴で、人間的にも成長させてくれるスポーツだと思います。私自身もラグビーに育てられて、ここまできました。まずは、ラグビーボールに触れてみてください!!
【取材・文】金木有香
【運営】株式会社ラグスター
大阪・啓光学園中(現:常翔啓光学園中)でラグビーを始め、啓光学園高では3年時に高校日本代表。しかし、ケガ(アキレス腱断裂)のためフランス遠征は辞退した。そして、同志社大でも同部位の痛みに悩まされた。その後、就職したカネカが1年目に廃部となり、クボタに移籍。抱えるケガにより、4年で現役を引退。
現在は、人財育成コンサルタント事業・プロコーチング事業「Work Life Brand」を設立し、日本協会のリソースコーチやU17・U18日本代表を指導する中、プロコーチングとして12チームと契約。御所実業(奈良)や興国(大阪)、女子ラグビー(四国大学)など。
寝ても覚めても野球、野球だった少年が、ある日、心を奪われたスポーツがあります。
―それは、ラグビー。ラグビーの虜になった日から、常に次のステージを想定して走り続けている二ノ丸友幸さん。そのラグビー人生とラグビーの魅力について、貴重なお話を伺いました。
<寝ても冷めても野球一色の小学生時代>
小学1年生の時に野球にひと目惚れした私。幼い頃の写真を見ると、旅行、お出かけ、いっちょうらの服を着ておしゃれをしている時など、どのシーンでも阪神タイガースの帽子をかぶっていました。それくらい野球が好きでしかたなかったのです。テレビは漫画より何より野球中継。父と甲子園に通い、誕生日、クリスマスのプレゼントはすべて野球グッズ。祖父が野球をしていたので、その影響ですね。
<まさかの野球超え!ラグビーと出会った日>
小学3年生から6年生に混じって試合に出ており、野球選手としては順調。悩みはありませんでした。しかし、5年生になるとそんな野球生活に疑問を持ち始めるようになったのです。「なぜ全て監督の指示に従わなければいけないのか」「守備の時にボールが飛んでこなかったら退屈」「攻撃のときも自分の打順がまわってこなければベンチにすわっているだけで退屈」など、自分で考え、判断し、行動できないことにストレスを感じていました。
野球に対するそんな思いを抱いていた6年生の時、親戚の人に連れられ、初めてラグビーの試合を観に実家近所の花園ラグビー場へ行くことに。忘れもしないその年の全国高校ラグビー大会決勝戦、啓光学園高校(現:常翔啓光学園高校)と国学院久我山高校の対戦でした。優勝したのは啓光学園。その試合を観た私は、まるで体に電気が走ったような衝撃を受け「これだ!」と、強く心に響くものを感じたのです。
早速家に帰って学校年鑑で啓光学園について調べたのを覚えています。この時点でラグビーを始めることは決心しており、やるなら強豪校でチャレンジしたいと思ったのです。周りの人は、将来も野球を続けていくものだと思っていたでしょう。しかし、私の気持ちは「野球もいいけど、ラグビーもいい」というような曖昧なものではありませんでした。私の中で野球が0になり、ラグビーが100になった瞬間だったのです。
<ラグビー選手としての土台を作った啓光学園中学・高校時代>
思いどおりに啓光学園中学のラグビー部に入部した私は、高校という次のフィールドで目標を達成するべく、日々練習に励んでいました。私は目標があってこそ頑張れる、モチベーションが上がるという性格。高校1年時でのレギュラー獲得、高校日本代表を目指すことで、モチベーションを保ちながらラグビーに取り組むことができました。
啓光学園ラグビー部は当時、日本一を目指す全国屈指の強豪チーム。部員は各学年およそ40名、合計120名以上の大所帯で、高校からラグビーを始めるのは学年に1人いるかいないかといった環境でした。まさに「我こそは」という選手ばかり。相当レベルが高く、スクラムハーフだけで同級生で5人、チーム全体で10人以上おり、激しいポジション争いが繰り広げられました。
こういった環境であることから日々の練習にも緊張感はありましたが、理不尽な上下関係はありませんでした。チームの雰囲気は、完全実力主義。1年生でも意見を述べることができ、先輩もその意見を取り入れてくれました。また、監督である記虎先生は当時、ラグビー界のカリスマ的な存在。よい指導者に巡り会えたと感謝しています。記虎監督にアドバイスをきちんと体現すれば、優勝できる、個人としても日本代表になれると確信していました。記虎先生の下で過ごした高校3年間で、私のラグビー選手としての土台を築けたように、今振り返っても思います。
<人生を変えた1点とケガ>
私が高校2年生の時、3年生によい選手がそろっており、日本一が狙えると思っていました。全国大会では、厳しい戦いではありましたが、全く負ける気はせず、決勝戦まで駒を進めました。そして、迎えた決勝戦、戦う相手は愛知県代表西陵商業。試合開始直後、今までに経験したことのない強い相手だと感じたことを覚えています。結果は、ロスタイムに逆転トライ、ゴールを決められ、惜しくも1点差で優勝を逃すことに。しかし、全力を尽くしたという思いと、1点の重みと大切さが、心に刻みこまれた戦いでした。ここで経験した、1点により人生が変わること、1点の重みと大切さは、指導者になってからも伝え続けています。高校ラグビーの決勝戦で学んだ、人生に大きくかかわる1点。それは確実に人生にとってプラスとなったのです。
また、高校時代に起こったもう1つの大きな出来事があります。高校2年生の時、高校日本代表候補に選ばれ、中学時代に掲げた夢が叶うところまで来ました。そして3年生になり、高校日本代表としてフランス遠征のメンバーに選ばれたのです。しかし、全国大会中に持病のアキレス腱炎が悪化し、フランス遠征直前合宿の練習ができなくなるという事態に。悩んだ末、フランス遠征は断念し、高校日本代表を辞退。叶いかけた夢が途中で途切れた気持ちでした。
実は、私の人生を変えたこのアキレス腱の怪我には、おもしろいエピソードが隠れているのです。高校日本代表の合宿で出会った、慶應義塾高校ラグビー部キャプテンの“ゴリ“こと野澤武史(現在、Jスポーツ解説者)。いきなり初対面の私に近づいてきて「お前が二ノ丸か。2年生から高校日本代表候補になって注目されているかもしれないけど、俺には通用しないぞ」と言うではありませんか(笑)。そんなふうに私を意識していた彼のタックル(本当は不要なレイトタックルですが)を合宿中に受け、私のアキレス腱が痛み出したのです。その後、引退まで悩まされ、引退の原因にもなったアキレス腱痛の発端です。
ここから彼との関係が始まるのですが、出会いからして本当におもしろいものでした。もちろん、今でも良き戦友、親友です(笑)。
<惜しみないサポートと愛情をくれた両親>
私がラグビーをするにあたって、両親は全面的にサポートしてくれました。母は、毎朝5時に起きて欠かさずお弁当を2つ作ってくれました。早弁用とお昼ご飯用です(笑)。練習を終え、自宅に着くのが23時頃になる時も多々あるような毎日。持ち帰った汚い洗濯ものを、いつもきれいに洗ってくれました。そして、両親供に私の話をよく聞いてくれたことが、本当に嬉しかったです。ラグビーのことはあまり知らない両親でしたが、どんな話にも真剣に耳を傾けてくれました。子どもが話し掛けても、ついつい「忙しい」「そんな考えは甘い」とシャットダウンしてしまう親御さんもいるかと思いますが、私の両親は、当時の私の意見や気持ちをきちんと受け止めてくれました。そのおかげで反抗期はなく、過ぎていきました。いや、ラグビーが忙しくて反抗したり親とケンカしたりしている暇がなかったのかもしれませんね(笑)。
先ほどお話したようにアキレス腱炎のためフランス遠征に行けず、手術をした時も、両親はいつもどおり接して愛情を注いでくれました。怪我をしたからといって特別なことをしてくれるのではなく、いつも通りのサポートを。それがかえって有り難かったです。「文句をいうなら辞めなさい。続けるならサポートはしてあげる」といつも言ってくれたことを覚えています。そんな両親のことを今も尊敬していますし、自分の子どもにも私が両親から受けてきたのと同じだけの愛情を注いであげたいと思っています。
<激動の中、ラグビーと仕事の両立を実現した社会人時代>
大学卒業後、2002年に関西社会人Aリーグに所属する株式会社カネカに入社しました。選んだのは、大学時代に尊敬していた2年上の先輩がいるというのが大きな理由でした。入社の翌年2003年より、ジャパンラグビートップリーグが開幕。関西社会人リーグからは上位5チームが参入できることになっていました。しかし、カネカは5位までに入れず、結果、会社が下した決断は廃部でした。ここで人生の岐路に立った私は、当時あまり聞きなれない“移籍“という選択肢を迫られていました。そんな時、トップリーグに参入した数チームからオファーをいただいたのです。その中で自分の将来ビジョンにマッチングしたのが株式会社クボタ(クボタスピアーズ)でした。ラグビー界で「移籍」という言葉が使われ始めたのがこの頃からですね。
社会人になるにあたりラグビーだけでなく、仕事でも1人前になりたいと考えていました。目標にしていたラグビーと仕事の両立が実現できたことで、ラグビーを辞めても自分には仕事があると思えるようになり、けじめをつけて現役引退をすることができました。
<海外のラグビーを経験して>
2002年カネカに入社する前、またカネカからクボタへ移籍する前に、ニュージーランドへ短期ラグビー留学をしました。高校時代からニュージーランド代表である「オールブラックス」が好きで、尊敬する選手もオールブラックスの選手を書くような小生意気な高校生だったのです(笑)。当時は海外のラグビーをテレビでもあまり観ることができなかったのですが、記虎監督が観る機会を与えてくれました。あとは、ラグビー以外にも海外の文化を体験してみたいという思いから、留学を決めました。
ラグビーに関して日本とニュージーランドの大きな違いは、取り組む姿勢です。日本人は好きで始めたラグビーなのに「練習嫌だな」「OFFにならないかな?」というような感情を持つことがありますし、トレーニングに関しても受け身になってしまいます。しかし、ニュージーランドの選手は、練習の無い日にも主体的にトレーニングしていますし、今自分が何をすべきかに気づき、考えて、行動しています。これには普段の練習スタイルの違いもあると思います。ニュージーランドでは、私の知っている限り、全体練習は週に数回、長くても2時間です。練習中はスイッチをオンにし、集中して無駄がありません。テンポよく繰り広げられ、「もっとやりたかった」という思いを持って次のメニューへ進むという、まさに腹八分目の練習なのです。いい意味でお腹いっぱいになることがなく、全体練習後の個人練習の余力を残すことができ、自分でお腹をいっぱいにするという作業をすることができます。
<セミナー講師として>
中学時代から常に次のステージで“何をしたいか、どうなりたいか“を考えて動いてきましたが、クボタ入社後は、現役引退後はどうするかということを常に考えて行動していました。そんな中、自分が様々な研修を受けるようになり、セミナー講師になりたいと考えるようになったのです。そのため入社してから15年間は次のステージでの土台作りと位置づけていました。そして37歳になった年、次のステージにチャレンジしようと決めていたのです。
セミナーの内容は、主に「社会で活躍するためのデュアルキャリアの重要性」ということをテーマに話しています。15年間のサラリーマンライフから見えてきたもの、ラグビーコーチとして学んだことなど、現実的な話を意識しています。「間違い」「正しい」を伝えるのではなく、情報の共有です。「こういう考え方もありますよね」と伝えることで、何かの“気づき“や“自分の見直し“の機会になればいいですね。
<2019年日本開催のラグビーワールドカップに向けて>
2015年ラグビーワールドカップ。日本代表、日本代表選手、ラグビーファミリーのおかげで、ラグビーの知名度が劇的に上がりました。私自身、様々なカテゴリー、チームでコーチをさせていただいている中で、出会った選手がワールドカップで活躍してくれることが楽しみにしています。
ラグビーが全て、ラグビーが何より一番とは言いませんが、人間的に成長できる魅力あるスポーツであることを子どもたちだけではなく保護者の方を含め、ラグビーファミリー以外の皆さんに伝えていきたいと思っています。
<ラグビーをしている子どもたち、ラグビーに興味を持っている子どもたちへ>
ラグビー選手の中には、大柄な体型の選手もいれば、私みたいに背が高くない選手もいます。また、走るのが速い選手もいれば、それほど速くない選手もいます。こうして様々な体格や能力に合うポジションがあるのがラグビーです。そして、前に進みたいのに後ろにボールをパスしなくてはいけないという自己犠牲的な要素があるのが特徴で、人間的にも成長させてくれるスポーツだと思います。私自身もラグビーに育てられて、ここまできました。まずは、ラグビーボールに触れてみてください!!
【取材・文】金木有香
【運営】株式会社ラグスター
ラグスター公式サイト
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