茗渓学園 → ノースイースタン州立大学 → ニュージーランドコーチング留学 → スリランカコーチング留学(青年海外協力隊でラグビー普及) → 日本代表スタッフ → ウズべキスタン代表強化コーチ → 東京フェニックスコーチ
珍しい人生、稀な人生と言える、白馬悠さんのラグビー人生。それはご両親の「珍しいスポーツをさせたい」という思いから始まりました。これまで国内外でさまざまな経験をし、ラグビーとともに生きる白馬さんの貴重なストーリーをお聞きしました。
<小1でスタートを切ったラグビー人生>
私がラグビーを始めたのは、小学1年生の時。何か珍しいスポーツをさせたいという両親が、我々3兄弟を地元のラグビースクールに連れて行ったのがきっかけです。今はラグビーが大好きだと断言できますが、当時はラグビーが好きで始めたのかどうかは、正直好きだとは言い切れませんでした。とは言え、小学生の頃から県内の試合に出るなど、ラグビーに染まっていった子ども時代。地元の中学にはラグビー部がないということで、ラグビーが強い茗渓学園中学を受験することを決めました。考えた末、心が決まったのは6年生の後半。そこから受験のために猛勉強をし、無事に合格。中学時代は、関東、東日本大会で優勝。当時は中学生の全国大会はなかったので、活動範囲の中で頂点を極めることができました。
<最後のワンプレーに泣いた高校時代から心は海外へ>
茗渓学園高校に進学。中学との大きな違いは、ウエイトトレーニングが加わったことでした。中学時代はパスをどんどん回してスピーディに攻めることで勝つことができましたが、高校生になるとそれだけでは通用しません。身体を大きくしなくては勝てないことを痛感しました。そして高校時代、自分の意識を変えた出来事があったのですが、それは花園出場をかけた茨城大会の決勝戦。最後のワンプレーで3点を取られて負けてしまい、花園出場の夢は叶いませんでした。この試合を経て、最後まで絶対に気を抜いてはいけないことを痛いほど経験し、今に至るまで私の心に強く残っています。現在、指導をするときにも、必ず意識していることです。
高校時代はラグビーに夢中になり、あまり勉強をしませんでしたが、将来を考えると英語を身につけておいたほうがいいと考え始めました。ラグビーは、「続けられたらいいな」とは思っていましたが、それよりも英語をしっかり習得したいという思いのほうが強くなっていました。さらには、せっかくなら他の人が行かない道を攻めてみたい!そこで行きついたのが、アメリカ行きでした。中学進学の時と同様、これまた決めたのは、高3の1月。しかも、英語は大の苦手で、周りからも「お前が海外にいくなんて!?」と言われているほどでした(笑)。
<人生で最も勉強に時間を費やした半年間>
高校卒業後の5月に渡米。振り返ってみると、日本でももう少し基礎を学んでおくべきだったなあと思います。英語は聞き取れないし、話せない。毎日、緊張感の中で過ごしていました。「とにかく行ってみよう!」という気持ちで、飛び込んだアメリカでの生活。渡米後半年間は、人生で1番勉強をした期間でした。語学学校では課題をしっかりこなし、夜は図書館で22時頃まで勉強。日曜の朝は、教会に通いバイブルスタディをしました。必死の勉強の末、半年後には大学入学の合格ラインであるTOEFL500点超えを達成。ここまで頑張れたのは、やはり明確な目標があったからこそできたことでした。この頃ラグビーは身近にはなく、自主的にウエイトトレーニングで身体を動かしていました。
<よみがえるラグビーへの思い>
アメリカ生活最初の1年間は、聞いた英語を頭で日本語に変換してから会話をしていましたが、2年目になると、英語で聞いて英語で返すことができるようになりました。そんな頃、せっかくだからラグビーをしたいという思いが湧き上がってきたのです。ラグビーを通じて、友達を増やしたり英語を話したりすることは、きっと自分にとってプラスになるだろう、と。大学入学3年目に、オクラホマ州の大学へ転学。小中高とラグビーを続けてきたこと、つまりラグビーという自分のツールをアメリカでも有効活用したい、そんな思いでした。
<アメリカのラグビーを肌で感じて>
大学でのラグビー部は、サークルのような位置づけ。すでに日本人が一人いて、彼にも協力してもらうことでスムーズに入部をすることができました。部員数は30人弱、その中で大学から始める選手が半数。身体能力は高いのですが、スキルはこちらが上だと感じました。練習は週2回、数時間程度で、それ以外はトレーニング、ランニング、スイミングなどを行なっていました。そして迎えたシーズン最初の公式戦。対戦相手はオクラホマ大学だったのですが、とにかく想像を絶する試合となりました。100点以上取られたのは、後にも先にもこの試合だけではないでしょうか。
<コーチングの一歩を踏み出した時>
日本とアメリカのラグビーを比べると、日本は形から入るところがありますが、アメリカは組織よりも個を重視します。コミュニケーションはすべて英語でしたが、スポーツはボディランゲージが可能。
自分のスキルを見て認めてくれたことは、円滑なコミュニケーションの助けとなりました。そして、上級生になるにつれ、日本で習ってきたことを現地で教えるという役目が加わりました。チームや頑張っている選手たちを勝たせたい、そして自分を信頼してくれたことに対して、一生懸命応えなくてはいけないという思いで取り組んでいました。次第にリーダーたちと戦術を考えるようになり、結果、格上のチームにも勝てるような実力をつけることができました。チームが1つ上のリーグに昇格することができた時は、周りから「サンキュー」「サンキュー」の嵐。これほど「サンキュー」を言われた日はなく、今思い出しても良い日だったなあと思います。
<ニュージーランドへのコーチング留学>
大学を4年間で卒業。夏の短期授業を受けるようにしたのが、比較的スムーズに卒業まで行けた理由ではないかと思います。帰国後は一般企業に就職し、3年半の間、SE職に就きました。ラグビーは地元のクラブで続けていましたが、趣味の範疇という感じでした。こうした毎日を過ごす中、漠然とこのまま今の生活を続けていくのは何かが違うと思い始めていたのです。
そんな思いを抱えた28歳の時、巡って来たのがニュージーランドへのコーチング留学の話でした。是非、挑戦したい!会社を辞めて、ワーキングホリデーでニュージーランドへ渡ることを決めました。この話をすると「会社辞めるのは勇気がいったのではないか。よく辞められたな」と言われるのですが、不安よりきっとチャンスがあるはずだ、という思いが強かったことを覚えています。
<ラグビーとともに過ごす生活>
ニュージーランドでは、生活にラグビーが根付いています。砂浜ではラグビーボールで遊んでいる家族がいますし、代表の試合を観に行くのも日常のようになっているのです。ラグビーはニュージーランドの文化そのものだと感じました。元ニュージーランド代表選手だった方が、クラブチームのコーチをしていたり、田舎のクラブチームにもスポットとしてコーチをしに来てくれたり。ラグビーでつながっているという感覚で、日本では野球やサッカー身近にあるように、ニュージーランドではラグビーがいつも身近にありました。
コーチング留学をして多くの人に出逢うことができました。今の仕事をするきっかけになったのもこの留学があったからこそ。ニュージーランドでは、中・高校生を教える機会が多く、自分が関わった選手たちが活躍するところを見ると、嬉しくやりがいを感じました。また、夢中でラグビーをしている姿を見るのも本当に楽しかったです。
<次の舞台・スリランカを経て、日本代表チームのスタッフを経験>
ニュージーランドから帰国後は、社会人ラグビーチームで通訳スタッフとして働きました。コーチングの現場を見ることで、コーチとしてポップからステップに進むことができたと思います。そんな自分に舞い込んできたのは、2019年日本でのワールドカップ、2020年東京でのオリンピックに向けて、アジアのラグビー向上を目指すという主旨のもと、アジア諸国への派遣スタッフの話でした。「ラグビー、海外ときたら、白馬じゃないか!」という湧き上がる思いを胸に、スリランカへ向かいました。
現地では、ホームステイをしながらの仕事。言葉は英語。中学、高校で、朝と放課後に指導をしていました。スリランカの各地でラグビーをしていることを知り、これまで日本だけに縛られていたことを感じた3ヶ月間でした。
帰国後は、自分にとって願ってもみないチャンスが巡ってきました。1週間の日本代表合宿のサポートスタッフの話です。仕事内容は、器具の準備や選手が飲むサプリメントの準備。また、当時ヘッドコーチをしていたエディー・ジョーンズともかかわる機会がありました。彼は常に本気を求めており、熱量の違いを目の当たりにしました。周りからは「マジカルアイを持っている」と言われるほど、選手に対して、本気かどうか見抜く力がすごいのです。そして合宿の終了時には、自分にとってちょっと驚くことがありました。エディーの通訳から「エディーが白馬さんのことをべた褒めしていましたよ」と言われたのです。そんな褒め言葉に驚きはしたものの、やはり嬉しく自信にもつながりました。世界トップレベルのコーチング現場を見たことで、自分の目指す形が明確になりました。
<ウズベキスタン代表のコーチとしてチームも自分も飛躍!>
神奈川の女子ラグビーチームのコーチを経て、日本ラグビーフットボール協会の海外支援プロジェクトのもと、次に踏み入れたのはウズベキスタンの地でした。アジアラグビーチャンピオンシップ大会のディヴィジョン3から2への昇格を目指し、アドバイザーとして男子代表チームを指導。選手たちは、ポテンシャルが高かったのですが、実践となると不慣れな点が目立ちました。大会に入ると、緊張し過ぎて実力が発揮できない、選手同士で喧嘩をするなど、私も叱咤するしかない場面もありました。しかし、2戦目からからは持ち直して、大逆転の末優勝にまでたどり着き、見事ディヴィジョン2への昇格を果たしました。続いて女子代表チームの強化を任され、アジア大会で6位。過去最高の成績をおさめることができました。
ロシア語と英語を織り交ぜながらのコミュニケーション。新しい言葉を覚えるのは、大変だと感じることもありましたが、コーチとして国際大会でチームを勝たせたい!という思いを持ち、置かれた環境の中で、妥協せずにやる切ることができたと思います。
<海外を目指そうとしている皆さんへ>
私は、海外でラグビーを教えるという稀な経験をしました。そこで感じたのは、母国以外の国の文化や国民性を理解すれば、人間力が高まるということ。日本でラグビーすることも、もちろんよいことだと思います。ただ、海外という舞台に飛び込み挑戦することは、選手としても1人の人間としても成長することができるのです。必死で挑戦したことは、きっと自分に返って来ます。どんどんチャレンジして、日本のスポーツ界を盛り上げていってほしいと思います。
私自身の次なる挑戦は、10年後には、女子ラグビー日本代表の指揮をとりたいと考えています。そのためには、高校生のスキルを高めるために育成活動を行います。将来、自分の教えた選手が日本代表のメンバーになれれば、最高ですね!
【取材・文】金木有香
【運営】株式会社ラグスター
珍しい人生、稀な人生と言える、白馬悠さんのラグビー人生。それはご両親の「珍しいスポーツをさせたい」という思いから始まりました。これまで国内外でさまざまな経験をし、ラグビーとともに生きる白馬さんの貴重なストーリーをお聞きしました。
<小1でスタートを切ったラグビー人生>
私がラグビーを始めたのは、小学1年生の時。何か珍しいスポーツをさせたいという両親が、我々3兄弟を地元のラグビースクールに連れて行ったのがきっかけです。今はラグビーが大好きだと断言できますが、当時はラグビーが好きで始めたのかどうかは、正直好きだとは言い切れませんでした。とは言え、小学生の頃から県内の試合に出るなど、ラグビーに染まっていった子ども時代。地元の中学にはラグビー部がないということで、ラグビーが強い茗渓学園中学を受験することを決めました。考えた末、心が決まったのは6年生の後半。そこから受験のために猛勉強をし、無事に合格。中学時代は、関東、東日本大会で優勝。当時は中学生の全国大会はなかったので、活動範囲の中で頂点を極めることができました。
<最後のワンプレーに泣いた高校時代から心は海外へ>
茗渓学園高校に進学。中学との大きな違いは、ウエイトトレーニングが加わったことでした。中学時代はパスをどんどん回してスピーディに攻めることで勝つことができましたが、高校生になるとそれだけでは通用しません。身体を大きくしなくては勝てないことを痛感しました。そして高校時代、自分の意識を変えた出来事があったのですが、それは花園出場をかけた茨城大会の決勝戦。最後のワンプレーで3点を取られて負けてしまい、花園出場の夢は叶いませんでした。この試合を経て、最後まで絶対に気を抜いてはいけないことを痛いほど経験し、今に至るまで私の心に強く残っています。現在、指導をするときにも、必ず意識していることです。
高校時代はラグビーに夢中になり、あまり勉強をしませんでしたが、将来を考えると英語を身につけておいたほうがいいと考え始めました。ラグビーは、「続けられたらいいな」とは思っていましたが、それよりも英語をしっかり習得したいという思いのほうが強くなっていました。さらには、せっかくなら他の人が行かない道を攻めてみたい!そこで行きついたのが、アメリカ行きでした。中学進学の時と同様、これまた決めたのは、高3の1月。しかも、英語は大の苦手で、周りからも「お前が海外にいくなんて!?」と言われているほどでした(笑)。
<人生で最も勉強に時間を費やした半年間>
高校卒業後の5月に渡米。振り返ってみると、日本でももう少し基礎を学んでおくべきだったなあと思います。英語は聞き取れないし、話せない。毎日、緊張感の中で過ごしていました。「とにかく行ってみよう!」という気持ちで、飛び込んだアメリカでの生活。渡米後半年間は、人生で1番勉強をした期間でした。語学学校では課題をしっかりこなし、夜は図書館で22時頃まで勉強。日曜の朝は、教会に通いバイブルスタディをしました。必死の勉強の末、半年後には大学入学の合格ラインであるTOEFL500点超えを達成。ここまで頑張れたのは、やはり明確な目標があったからこそできたことでした。この頃ラグビーは身近にはなく、自主的にウエイトトレーニングで身体を動かしていました。
<よみがえるラグビーへの思い>
アメリカ生活最初の1年間は、聞いた英語を頭で日本語に変換してから会話をしていましたが、2年目になると、英語で聞いて英語で返すことができるようになりました。そんな頃、せっかくだからラグビーをしたいという思いが湧き上がってきたのです。ラグビーを通じて、友達を増やしたり英語を話したりすることは、きっと自分にとってプラスになるだろう、と。大学入学3年目に、オクラホマ州の大学へ転学。小中高とラグビーを続けてきたこと、つまりラグビーという自分のツールをアメリカでも有効活用したい、そんな思いでした。
<アメリカのラグビーを肌で感じて>
大学でのラグビー部は、サークルのような位置づけ。すでに日本人が一人いて、彼にも協力してもらうことでスムーズに入部をすることができました。部員数は30人弱、その中で大学から始める選手が半数。身体能力は高いのですが、スキルはこちらが上だと感じました。練習は週2回、数時間程度で、それ以外はトレーニング、ランニング、スイミングなどを行なっていました。そして迎えたシーズン最初の公式戦。対戦相手はオクラホマ大学だったのですが、とにかく想像を絶する試合となりました。100点以上取られたのは、後にも先にもこの試合だけではないでしょうか。
<コーチングの一歩を踏み出した時>
日本とアメリカのラグビーを比べると、日本は形から入るところがありますが、アメリカは組織よりも個を重視します。コミュニケーションはすべて英語でしたが、スポーツはボディランゲージが可能。
自分のスキルを見て認めてくれたことは、円滑なコミュニケーションの助けとなりました。そして、上級生になるにつれ、日本で習ってきたことを現地で教えるという役目が加わりました。チームや頑張っている選手たちを勝たせたい、そして自分を信頼してくれたことに対して、一生懸命応えなくてはいけないという思いで取り組んでいました。次第にリーダーたちと戦術を考えるようになり、結果、格上のチームにも勝てるような実力をつけることができました。チームが1つ上のリーグに昇格することができた時は、周りから「サンキュー」「サンキュー」の嵐。これほど「サンキュー」を言われた日はなく、今思い出しても良い日だったなあと思います。
<ニュージーランドへのコーチング留学>
大学を4年間で卒業。夏の短期授業を受けるようにしたのが、比較的スムーズに卒業まで行けた理由ではないかと思います。帰国後は一般企業に就職し、3年半の間、SE職に就きました。ラグビーは地元のクラブで続けていましたが、趣味の範疇という感じでした。こうした毎日を過ごす中、漠然とこのまま今の生活を続けていくのは何かが違うと思い始めていたのです。
そんな思いを抱えた28歳の時、巡って来たのがニュージーランドへのコーチング留学の話でした。是非、挑戦したい!会社を辞めて、ワーキングホリデーでニュージーランドへ渡ることを決めました。この話をすると「会社辞めるのは勇気がいったのではないか。よく辞められたな」と言われるのですが、不安よりきっとチャンスがあるはずだ、という思いが強かったことを覚えています。
<ラグビーとともに過ごす生活>
ニュージーランドでは、生活にラグビーが根付いています。砂浜ではラグビーボールで遊んでいる家族がいますし、代表の試合を観に行くのも日常のようになっているのです。ラグビーはニュージーランドの文化そのものだと感じました。元ニュージーランド代表選手だった方が、クラブチームのコーチをしていたり、田舎のクラブチームにもスポットとしてコーチをしに来てくれたり。ラグビーでつながっているという感覚で、日本では野球やサッカー身近にあるように、ニュージーランドではラグビーがいつも身近にありました。
コーチング留学をして多くの人に出逢うことができました。今の仕事をするきっかけになったのもこの留学があったからこそ。ニュージーランドでは、中・高校生を教える機会が多く、自分が関わった選手たちが活躍するところを見ると、嬉しくやりがいを感じました。また、夢中でラグビーをしている姿を見るのも本当に楽しかったです。
<次の舞台・スリランカを経て、日本代表チームのスタッフを経験>
ニュージーランドから帰国後は、社会人ラグビーチームで通訳スタッフとして働きました。コーチングの現場を見ることで、コーチとしてポップからステップに進むことができたと思います。そんな自分に舞い込んできたのは、2019年日本でのワールドカップ、2020年東京でのオリンピックに向けて、アジアのラグビー向上を目指すという主旨のもと、アジア諸国への派遣スタッフの話でした。「ラグビー、海外ときたら、白馬じゃないか!」という湧き上がる思いを胸に、スリランカへ向かいました。
現地では、ホームステイをしながらの仕事。言葉は英語。中学、高校で、朝と放課後に指導をしていました。スリランカの各地でラグビーをしていることを知り、これまで日本だけに縛られていたことを感じた3ヶ月間でした。
帰国後は、自分にとって願ってもみないチャンスが巡ってきました。1週間の日本代表合宿のサポートスタッフの話です。仕事内容は、器具の準備や選手が飲むサプリメントの準備。また、当時ヘッドコーチをしていたエディー・ジョーンズともかかわる機会がありました。彼は常に本気を求めており、熱量の違いを目の当たりにしました。周りからは「マジカルアイを持っている」と言われるほど、選手に対して、本気かどうか見抜く力がすごいのです。そして合宿の終了時には、自分にとってちょっと驚くことがありました。エディーの通訳から「エディーが白馬さんのことをべた褒めしていましたよ」と言われたのです。そんな褒め言葉に驚きはしたものの、やはり嬉しく自信にもつながりました。世界トップレベルのコーチング現場を見たことで、自分の目指す形が明確になりました。
<ウズベキスタン代表のコーチとしてチームも自分も飛躍!>
神奈川の女子ラグビーチームのコーチを経て、日本ラグビーフットボール協会の海外支援プロジェクトのもと、次に踏み入れたのはウズベキスタンの地でした。アジアラグビーチャンピオンシップ大会のディヴィジョン3から2への昇格を目指し、アドバイザーとして男子代表チームを指導。選手たちは、ポテンシャルが高かったのですが、実践となると不慣れな点が目立ちました。大会に入ると、緊張し過ぎて実力が発揮できない、選手同士で喧嘩をするなど、私も叱咤するしかない場面もありました。しかし、2戦目からからは持ち直して、大逆転の末優勝にまでたどり着き、見事ディヴィジョン2への昇格を果たしました。続いて女子代表チームの強化を任され、アジア大会で6位。過去最高の成績をおさめることができました。
ロシア語と英語を織り交ぜながらのコミュニケーション。新しい言葉を覚えるのは、大変だと感じることもありましたが、コーチとして国際大会でチームを勝たせたい!という思いを持ち、置かれた環境の中で、妥協せずにやる切ることができたと思います。
<海外を目指そうとしている皆さんへ>
私は、海外でラグビーを教えるという稀な経験をしました。そこで感じたのは、母国以外の国の文化や国民性を理解すれば、人間力が高まるということ。日本でラグビーすることも、もちろんよいことだと思います。ただ、海外という舞台に飛び込み挑戦することは、選手としても1人の人間としても成長することができるのです。必死で挑戦したことは、きっと自分に返って来ます。どんどんチャレンジして、日本のスポーツ界を盛り上げていってほしいと思います。
私自身の次なる挑戦は、10年後には、女子ラグビー日本代表の指揮をとりたいと考えています。そのためには、高校生のスキルを高めるために育成活動を行います。将来、自分の教えた選手が日本代表のメンバーになれれば、最高ですね!
【取材・文】金木有香
【運営】株式会社ラグスター
ラグスター公式サイト
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