■経歴
宮崎大宮高 → 宮崎産業経営大 → GPS CLUB プレミアリーグ(オーストラリア) → クイーンズランド ホトルーズ・セブンスチーム(オーストラリア)
■コーチ歴
日本IBMビッグブルー テクニカルコーチ・プロレフリー(2003-2006)
ラグビー日本代表 バックルームスタッフ(2007-2015)
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アジア人として初のフルタイムレフリーとなった平林泰三さん。1995年、大学2年生から3シーズン、オーストラリアのクラブチームに所属し、豪州代表選手とともに国際大会にも出場しました。今振り返るとまさに「生き抜いた」という言葉が当てはまるという、オーストラリアでの貴重な経験をお話いただきました。

<師匠との出会い>
地元・宮崎の大学へ進み、2年生の時にオーストラリアへラグビー留学しました。それまでの海外経験は無いに等しく、大学1年生の時に、パースに住む友人の家に遊びに行ったのみでした。

初めてオーストラリアのラグビーを肌で感じた時、レベルが高いとは思わなかったことを覚えています。それまでずっとテレビで観てきたインターナショナルラグビーの基準が高すぎたのでしょう。ただ、オーストラリアで人生を左右する出会いがあったのです。それは、自分と同じポジションであるスクラムハーフとして、地元のクラブチームで活躍していた、私にとってオーストラリアでの師匠と言える人です。当時、レフリーになることを目指していた私にこんな言葉をかけてくれました。「プレイヤーとして培った人脈がレフリーになったときに生きる」と。ケガをしてレフリーになる人が大半なので、誰にでも言える言葉ではありません。そんな貴重な言葉を私に言ってくれたことが、非常に嬉しかったです。師匠の一声で、プレイすることを決めたのですから。
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<日本とオーストラリアの二重生活>
日本の大学に籍を置いてオーストラリアに渡ったので、シーズンオフには帰国し授業に出て試験を受け、単位を取得していました。いわば、日本とオーストラリアの二重生活です。そんな中、教職の単位も取得しようとしていたのですが、試験がシーズンと重なり帰国できないという事態が発生。そこで学長に直談判をしました。自分の活動をアピールすると、大学としてもいいことだからと、特例を認めてくれることに。その後も、オーストラリアで卒論を書いて送り、卒業をしたというわけです。

<英語は生活の中で習得>
英語に関しては、英会話学校に行ったこともなかったですし、興味もなかったというのが正直な気持ちです。中学、高校の授業で学習しただけなので、もちろんさっぱりわかりません。しかも、オーストラリアは英語であり英語でないと言われているほど、英語圏では最難関。そんな中、チームメイトと一緒に住んでいたので、生活の中で習得していきました。あと、英語も大事ですが、オーストラリア人の嫌味めいたジョークを真に受けないことも大事だと思います。そういった日本ではあまり聞かないジョークを気にしていると、ホームシックになってしまうかもしれません。

<ラグビーにおける日本とオーストラリアの違い>
1996年に世界でラグビー界が大きく転換期を迎えました。オーストラリアでは1995年からプロが発足。そこで、プロ選手が生きていくためや競技力を向上させるために、プロフェッショナルなコーチやマネージャーからアイデアが出されているのを目の当たりにしました。そういったシステムは日本にはありません。また、ラグビーはもちろん、バスケットボール、アメフトなどでプロ選手としてプレイしていた人たちからのアイデアもどんどん入って来ます。こういった仕組みが確立されているのが、ラグビー界の世界最先端を行く所以だと感じました。それに対し日本は、海外の実績を買ってきているようなイメージ。日本はトライ・アンド・エラー、いわゆる試行錯誤する土壌がないため、選手がのびのびとできないのが残念な点です。また、オーストラリアは日頃から育成の発想が根づいています。日本は、コーチ陣、指導者が人を育成するためのノウハウを発揮する時間を有していないため、育成という概念が乏しくなってしまいがちです。海外みたいに上から下までのクラブチームで長期育成するシステムがないのが一つの原因だと思います。

ただ、オーストラリアでは、限られた選手しか就けないトップクラスの座は、一度脱落したら二度と戻ってこられないというシビアな面もあります。しかし、選手も納得した上で成り立っているシステムなのです。
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<生き抜いたオーストラリアでの3年間>
オーストラリアへ行ってよかったのは、基盤ができたということ。今、振り返ると、毎日楽しかったり悔しかったり痛かったり、感情の渦の中で生きているようなものだったなと感じます。「楽しい」というより「生き抜いた」という気持ちのほうが明らかに大きいのです。ただ、現在、その時に得た知識と人脈が生きているので、とても貴重な時間を過ごしたのだと思っています。

辛かったのは生活面。お金がなかったので、貧乏生活でした。当時、1カ月の家賃払った後、残り2万円で生活したことも。移動には友達の使わない自転車を借りたり、土方の仕事の帰りに練習に来た選手のトラックに乗せてもらったりもしました。帰国したらとにかくバイトをして、できる限りお金を貯めて戻りました。でも、学生だから遊びにも使ってしまいます。友人からおんぼろ車を買ったりもしました。そして、バイトで稼いだお金がまたなくなってしまう(笑)。今思うと、若さならではの行動ですね。

そして、あの頃は公衆電話から国際電話をかける時代。インターネットは国内のみしか使用できなかったので、日本の家族ともほとんど連絡を取ることができませんでした。
世界中どこにいても瞬時につながることができる現在では、考えられない状況です。
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<これから留学をしようとしている皆さんへ>
私が所属したのはオーストラリアで2番目に古いクラブチームで、初の日本人プレイヤーでした。所属した時は配属の仕組みというものは存在していませんでしたが、その後、日本人選手が続いていけたことは、とてもよかったなと思います。

オーストラリアでレールに乗り、このまま進んでいくこともできました。しかし、日本へ戻ってきたのは、世界に進出するという夢を真にかなえるためには、日本人として台頭しなくてはいけないと考えたからです。オーストラリアは多国籍多人種。日本人だからというのは関係ありません。それはメリットでもありますが、ある意味日本人ではなくなる瞬間があることを意味します。私は、日本人として成功したいという自尊心がありました。
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これから留学をしようと考えている皆さんに伝えたいのは、もし今、迷っているのなら、やってはいけないという確固たる理由、例えば家族を捨てるというような理由がない限り、やったほうがいいということ。私は、海外に出て出会いに恵まれました。それは、決してお金では買えないもの。今の自分につながる貴重な経験を積んだことは間違いありません!

【取材・文】金木有香 
【運営】株式会社ラグスター